空色溶けたら最後
稲葉山城に侵入者は二人、の筈だった。
武田の忍と、上杉の忍、それから、やや遅れて登場したのは風をその身に纏った伝説の忍だった。
さすがに三人の相手は骨が折れそうだと感じたが、考えている暇などなかった。
この三人の目的がこうも僕を駆り立てる。
「秀吉、こいつらを君の所までは行かせない」
例えここで自分が朽ち果てようとも。
そう呟いて、勢いよく愛刀を振りかざす。
逆光で三人の顔などよく見えなかった。


猿の水練魚の木登り
葡萄が好きだと言ったから、持って来た。
柿が好きだと言ったから、夢吉の分を渡した。
桃が好きだと言ったから、探しに行くと言った。
何もそこまでしなくて良いんだよ、
床の間の蒼白が苦笑に歪んだ。
嫌だ、俺はきっとお前の為ならなんでもしてやらなきゃ気がすまない。
「ねぇ慶次君、僕は卵も好きだな」
ふと蒼白が悪戯っぽく微笑んだ。
「卵?」
「特にね、…きみが好き」
しばし間が開いて、柄にも無く自分の顔が熱くなっているのに気付く。
目の前の蒼白も、また然り。
そんな二人の間に挟まれた夢吉は、意味も分からずキキ、と嬉しそうに鳴いた。

死に花が咲く
「貴方なんて、大嫌いだったわ」
女は青褪めた顔で、震える唇で、精一杯、そう言い放った。
「私は殿の為に、剣はふるえないもの、殿の隣に、いつもいられないもの」
私はただ、見守るだけ。
それが悔しくて、彼の信頼する軍師に子供のように当たり散らした。
なんて嫌な女なんだろう、最後の最後まで。
自分で自分が嫌になる。
「…私のこと、忘れないで」
だからこそいっそ、一思いに。
女は目の前の軍師に見せつけるように鮮血をまき散らした。
ああ、たった今、この大量の血の赤が殿のお役に立った証。
「嬉しいかい、ねね。僕も君が嫌いだったよ」
誰も君の代わりになんてなれない。
血の証を浴びた軍師はそれを気にするでもなく、
もう届かないであろう告白を持って、幸福を含んだ屍の頬に優しく口付けた。

重たい体を持て余し
花を添えた。
なんの花が好きだったかは知らない。
あんなに一緒に居たというのに、
交わした言葉は兵法のこと、国のこと、天下のこと。
考えてみれば笑った顔など、頭の片隅にしかなかった。
今、この我の天下を見たらお前は笑ってくれるか。
各地を走り回り、肺を冒され、それでも未来へ進み続けたお前は、笑ってくれるか。
「愚か者めが」
名も知らぬ花の花弁が一つ散った。
愚か者は、もう何処にもいない。


怒れる二人の攻防戦
豪快に風を切る音が聞こえたと思ったときには、もう遅かった。
気付けば風来坊に頬を殴られた後だった。
「お前と秀吉が、ねねを殺したんだ!」
風来坊の叫び声は鼓膜を破りそうな程震わせた。
慶次君は何もわかっちゃいない。
軍師は殴られた頬を押さえながらほくそ笑んだ。
「何も知らない君は幸せだろうけど」
知らないくせに。
ねねの、幸せそうな死に顔を。
秀吉の、覚悟を決めた横顔を。
何も知らないくせに。
軍師はこんなときに出そうになった咳を一つ、喉の奥に押し込めた。

死こそ人生という夢からの目覚めか
もしも自分の生きている人生が一つの長い夢で、そして自分の見た夢の世界も自分の現実同様同じ様に本当に存在するとしたら。
「なんか難しいこと考えてる」
「どうかな?」
風来坊はいつの頃からか布団に張り付きっ放しになった軍師の痩けた頬を撫でた。
そして軍師はまた万年床で桜吹雪の夢を見る。


ひたすらに歩けるように
また、こんなに痩せて。
殿も言っていらしたわ。
薬はちゃんと飲んでいるの?
穏やかな昼下がり、女は小鳥のさえずりの如く話しかけてきたが軍師は気にしなかった。
軍師はただ、女が貸す柔らかな膝に全てを投げ出し、暖かな体温と心地良さを感じていたかった。
美しい君よ、
君が望むのなら、君の愛する殿に天下を捧げよう。
愛しい人よ、
君が望むのなら、野山を駆ける兎すらたんと食べて、毒の代わりに君の大好きな花を吐こう。
女の柔肌からは、彼の匂いがした。


さよならを教えて
邪魔な奴なら容赦はしない。
彼が天下を取る為に不必要な可能性は芽の内に全て刈り取ってしまおう。
至高の花を咲き誇る前に。
そう思っていた男は一体何処へ消えたのだろう。
よもや収穫の為の鎌を無くし、桜吹雪を纏った男と笑いながら寄り添い歩く男などではあるまい。


同志様と大つごもり
その清らかな音は人間の持つ108つの煩悩を祓ってくれる。
そんな節を思い出して、男は眉をしかめた。
「もし、僕の中に109つめの厄介な煩悩があるとしたら、」
それは今日この日にはやはり除去されず、毎年年が去る代わりにこの身体に置き去りにされることだろう。
きっと、永遠に。
男のついた溜息は、笑窪を見せて笑んだ女の「あら私もよ」という言葉に彷徨い落ちた。


そこから繋がる宇宙
白い窓に縦横無尽に零された黒い雫。
あ、そこ、撥ねてない。
線、曲がってる。
ついには豪快にはみ出して。
けれどそこには規則や制約などない無限の世界が広がっていた。
仮面の男は風来坊の書いた「賀正」の文字を見つめては、羨ましいな、と呟く。
もちろん隣の風来坊には聞こえない様に小さな囁きで。


最初で最後の我儘が通るのなら
六畳の銀世界という錯覚に紛れながら幾度目かの猛毒を撒き散らす。
白に赤は映えるから困るな、と独り苦笑した。
いっそ、毒の代わりにあの色とりどりに踊る星の様な花を吐き出せたなら。
考えたところで、ぜいぜいと鳴る気管も床を侵蝕する闇も止どまることを知らないらしいが、


ごめんね愛も伝えられないままで
「ククク、やはりね、貴方の中身はこんなにも貪欲だ」
死神の笑い声が耳を舐める不快感を、もはや地に這い蹲う軍師は仮面で隠すことも出来ない。
出来ることならば、この死神の闇を焦がし自分を未来へ導いてくれるあの眩い光の中で、
出来ることならば、嗚呼、彼にもう一度だけ、
今は飲み込んだ刃の鋭い痛みと、ぼやける世界と寒気にこの身を委ねるしかないのか。
せめて地に落ちた彼から授かりし仮面に、苦し紛れに伸ばした指が届くことを祈りたい。


暈し舞い戻り夢の輪郭
暗黒を一人揺蕩う中、聞き覚えのある女の声でゆらりと覚醒した。
「半兵衛君たら相変わらずその寝起きの悪さ、変わらないのね」
まだ思考が身体に付いて来ないらしい。
霞む視界で捕らえた見覚えのある女がくすくすと笑う声を何処か遠くに感じる。
「あのね、あまり長居は出来ないの。いつまでも此処に留まる訳にはいかない」
不意に厳しくなった声色になるほどそういう事かと一人納得した。
自分の視界の中で愛する者の為命を絶った女がいた。
名をねね、と言う。
「私に付いてきて。お寝坊半兵衛君」
最期に見せた笑顔と変わらぬ笑顔が再び舞い降り、何故か自分を酷く安堵させた。

狂い咲く人間の証明
雪肌に二つの亡骸を転がした。
義姉様と、蘭丸。
散らばる赤が白い山頂に映えて綺麗だった。
「全部、全部、全部、全部、全部…」
長政様、全部、市が消すの。
頑張るから、最後まで見ててね?
「次は兄様だよ…」
鮮血に濡れ、鈍く光る薙刀をずるりと引きずり歩き出した。
腹から込み上げて来る笑いをどうして止めることが出来ようか。

密やかな願いなどその前では無力で
開け放たれし底の国の蛇の香りが手招きしている。
現世魔王の兄様が降臨した証。
市もお共します、
勝手にしろ…もたもたするな!
こんなにも当たり前のいつものやりとりが、只々愛しかったのに、どうして。
どうして連なり来たる底の闇はこの人を選んだの。
兄様の罪は市の罪なのに。
罪は市が背負うって言ったのに。
最後まで正義を名乗った夫の冷たい身体に、
涙を落とすことしか出来ない自分がどうしようもなく憎かった。


女の夢想は残酷な幻想となり
踊り狂う焔の城、足下には第六天魔王の屍、手には赤く色付いた蛭巻、どうしようもなく込み上げて来る虚しい笑い声、
「うふふふ…あは、あははははは!」
ねぇ長政様、市、これでみんな消したわ。
蘭丸も、義姉様も、兄様も、みんなみんなみんな!
市を褒めてくれる?褒めてくれるよね?あのときみたいに!
不意に女は何かを求めるように天を仰ぎ手を伸ばした。
けれど頬に涙を這わせた女の手は悲しい程に短くかつて夫だった男の元へはどうしても届かない。

泣かない心で終わらせましょう
小さな花畑の中で男と女はひっそりと寄り添っていた。
男からは体温も鼓動も感じなかったが女は気にしなかった。
恐らく自分もそうなのだから。
だから男がすっと指差したその先には古よりの冥府の川が、自分たちを今か今かと待ち望んでいるのだろう。
女は男の行動に答えるように笑顔で言った。
「市はずっと、長政様のお側に…」
冷たい手と手を繋ぎ曼陀羅華を踏み潰し歩き出す。
恐くなんてない。
大丈夫、二人で闇に帰るだけだから。

私の世界を貫く光
暗い冥府の川や根の国しか知らなかった自分の世界が大きな輝きに抱かれたのは、
あの日、あの人が現れた瞬間だった。
「浅井長政と申す」
白く透き通る様な甲冑に身を包んだそれは凛とした声で名乗った。
なんて、眩しい光のお方。
世界中の灯火を持ってしても暗黒が渦巻く世界が、
「市、と言うのだな?」
「…はい」
「なんというか、その、よろしく頼む」
ぎこちない微笑みによって、今、崩壊する。

それは紫色した雨の黄昏
鮮やかな藤色に感嘆の息を漏らすと、自虐的な笑みが返って来た。
「よく見てご覧よ、毒みたいな色だろう?」
鮮明なそれは拒絶の紫へ変貌し、俺を戸惑わせた。
「もう、会えないんだ」
語尾に苦しげな咳を一つ聞く。
それでも別れの言葉など告げてはやらない。

蜜戯の代償
尾を思わせる長い赤毛を鷲掴み、死神への渡し賃目掛けて踏み付け。
大地に向かって五月蝿く吼えるそれを嘲笑で黙らせる。
「君の手綱は今僕の中にある、這いつくばる姿は駄犬の君にはお似合いだ」
名犬は自分の死に様を主人に見せないと言う。
ならば駄犬の君はどうしようか。
夜風の隙間から虎の遠吠えを聞く。

桜色が舞うのを見てた、黒い瞳は海みたい
軍師の視界は反転し、大猿の轟音に戦場が揺らいだ。
「…顔を、良く見せてくれないか……」
逆光で輪郭しか浮かばないあの固い頬を、どうやら震える指先は覚えていてくれたらしい。
「これは、僕が望んだこと、だ、…」
薄れゆく感覚の中で指先が湿っている事に気付いた。

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